自分が何をしなければならないのかが自ずとわかる、すばらしい小説です。
2月5日、『おとなの教養2』池上彰
2月7日、『本の「使い方」1万冊を血肉にした方法』出口治明
2月12日、『一九八四年』ジョージ・オーエル
読了。
やはり『一九八四年』を読了したことは、感慨深い。
なぜなら、池上さんも、出口さんも、齋藤先生も、著作中で『一九八四年』に言及しており、この本が古典的名著であり、読むべき本であるとおっしゃっているからだ。
そういう本を一冊、また一冊と読了していくことは、貴重なものを積み上げていく感覚に近い。
いや、実際、お金を大切に貯金するように、私の心の中に、賢者の言葉、齋藤先生風に言うなら「賢者の木」が蓄積されていくのだ。古典を読めば読むほどに心の森が豊かに大きくなっていき、私が生きる助けになってくれる。
そう信じたい。信じている。
さて、以下には『一九八四年』の感想を書くので、ネタバレされたくないという方はこれ以上はおすすめしません……
この本は、おぞましいディストピアを描いている。『夜と霧』を読んだ時と同じで、つらくて読むのを辞めたくなるが、人間が極限状態で何を考え、何を想い、どのような行動をするのかが気になり、ページをめくる手が止まらなかった。
『夜と霧』は生きて帰れたという事実があるので、目を覆いたくなる文章もなんとか耐えることができた。一方で『一九八四年』はというと、正直後半の拷問の描写は読み飛ばしてしまった。重要な所は飛ばしたくないので、一行二行を目で「撫でる」ように飛ばして、また少し読み、拷問の描写が出てくると撫で飛ばして……何とか最後まで辿り着いた。
やっとの思いで辿り着いた最後の一行だが、それを読み終えた時の、あの救いのない気持ちは、きっと一生ついて回るだろう。私は二度目の読書ができるだろうか?自信がない。
しかし、まだ読んでいない人には強く言いたい。
「読んでみてください」
この本には、人間が思考することによって人間たりえるということが書かれています。
思考を奪われた時、すべてを失うということが書かれています。
自分の頭で考えたくても、考えることを奪われた人たちが描かれています。
同時に、自分の頭で自由に思考することが許可されているのに、思考しない、できない人たちが描かれています。
その世界は、ディストピアでした。
この小説の世界におぞましさを感じるのなら、自分が何をしなければならないのかが自ずとわかる、すばらしい小説です。
2+2は4だと言える社会に私たちは幸運にも生まれた。
それは、とてもとても幸せなことであり、2+2は5であると強制される世界にしてはならない。それを許してはならない。
2+2は5だと言われたら毅然として「違う」と言わなければならない。
それは私たちの義務。
その前に、2+2が4であると理解できるようでなければならない。2+2が4であるとわかること、それは過去から学ぶことであり、異人から学ぶことであり、今あるすべての事柄から何かを感じ、そして、
自分の頭で考えることである。
だから、これからも古典を読みましょう。
一緒に。