読了の向こう側に一体何があるのか

名著読了後の世界が知りたくなった主婦のブログ

「あんた馬鹿ね。本当に間抜けよ」 と一蹴されることがわかりきっているからだ。

3月16日、ポール・モラン著『シャネル 人生を語る』中公文庫、読了。

 

 

シャネル―人生を語る (中公文庫)

シャネル―人生を語る (中公文庫)

 

 

「人生がわかるのは、逆境の時よ。」

しびれた……!!

全くのイメージだが、ココ・シャネルという人物は気の強い、自立した、かっこいい女性だと思っていた。

裏切られた!と感じるのは、気の強さが想像を遥かに超えていたから。

それから、その辛辣さと言ったら。

その、誰にも(特に男の人に)頼らないとかたくなに決心している、鋼のような自立心。

思い立ったらグダグダと考える暇を一瞬たりとも与えない行動力。

出会う人間、ひとりひとりの本質をすぐさまに見抜く眼力。

読んでいる間中、なんだかすべて人並み外れていて、ほとんど感嘆しかしていない。

特に好きなのは、親友のミシアの章。こんな文章がある。

わたしたちは二人とも他人の欠点しか好きになれないという共通点をもっていた。欠点だらけのミシアは愛する理由に事欠かなかった。

これを読んだとき初めに思ったのは、「友人の欠点を愛せるなんて素敵じゃん!さすが!」というものだった。

でも読み進めるうちに「?」が浮かんでくる。

ミシアがシャネルを好きな理由は、シャネルがミシアにとって「理解不能」な人物だからだと、シャネル自身が分析している。

 

ミシアは私を愛していると心から信じているけれど、その愛は恨みなのよ。わたしに会うと不幸になるくせ、会わないではいられない。わたしの方から愛情を示すと夢中になって、何にも得がたい悦びにひたる。

シャネルもシャネルで、ミシアが自分を理解できずに執着している状況に優越感をいだいているように見える。アンビバレントな、分裂的な思考状態で自分に固執してくるこの友人を哀れんでいるのか、安心して優越に浸っているのか、とにもかくにも、好意を抱いている。

シャネルのミシアに対する友情も、ふたを開けてみれば、かなりいびつなのだ。似た者同士なのだろう。

だからこそ、二人の友情は末永く続いた。

それが幸せだったかどうかは別として。

でもなんかその友情が生々しくて、私の中でのこの本のハイライトになった。

だって人間て本来そういうものだと思うから。美しいと思いながら、愛らしいと思いながら、一方で破滅を願うような。

「愛している」と「憎んでいる」が全く同じ質量をもって同居するような。

いや、同居ではなくもはや同義語だね。

「愛してる」と書いて「にくんでいる」と読む。

「憎んでいる」と書いて「あいしている」と読む。みたいな。

 

この、統合失調的な、カオスな心理がこの章には詰め込まれていて、読んでいてとてもわくわくした。

多分私の性格が非情に悪いせいだと思われる。

ずうっと昔から、自分の中に相反する自分が住んでいる感じを持って生きてきた。だから、そういう人は自分だけじゃないんだな、と思って安心した面もあると思う。

それから、シャネルとミシアの気性の激しさが好き。自分も気性の激しさを飼いならせずに苦労してるから。

余談だけど、私、五黄の寅なんです。

 

 

この本にはシャネルの仕事に対する想いも詰まっている。

私にもやりたいことがあるので、とても胸に染みた。

常に愛情に飢えて、満たされない愛情への欲求というエネルギーを、すべて仕事につぎ込んだような人生。

仲間も信頼できる恋人もいたけれど、生涯独身で子どもも生まなかった。

本の中でも「わたしはひとり」という言葉が何回も出てくる。

「ひとり、それが何?」

「私は私の道をゆく。それがすべてよ。何か文句ある?」

というような気概で、時代の流れのど真ん中をずんずん突き進んでいくシャネル。

かっこいい。

きっと自分は成功できない、と思わせられてしまう。

この人くらいに孤独を飼いならせなければ、

すべての物事の頂点に仕事がくる生活でなければ、

成功の神には愛されない。

そう思う。

そのことに対して、シャネルの人生に対して、感想をもつことすらも怖い。

彼女は亡くなっているので、私がこうやって発信したところで何も言われたりしないのは百も承知だけど、どんな感想を言ったとて、

「あんた馬鹿ね。本当に間抜けよ」

と一蹴されることがわかりきっているからだ。

 

ココ・シャネルの心の中を知ることができた人は、果たしてこの世にいたのだろうか。

 

 

シャネル―人生を語る (中公文庫)

シャネル―人生を語る (中公文庫)