言葉の意味が、背筋をひたひた、と這いのぼってきたように感じた。
3月19日、江國香織著『真昼なのに昏い部屋』講談社文庫、読了。
自分の言葉がきちんと届く相手、ほんとうの意味での言葉のキャッチボールができる相手にもし出会ってしまったら、私は一体どうするのだろう。しぐさや目線の動かし方や気配で、気持ちを理解してしまうような人。美弥子さんにとってのジョーンズさんが、もしも、あんな風に目の前に現れてしまったら。
私は小さな鳥かごの中にとどまれるだろうか?
そして、その出会いは心底すばらしく、美しい宇宙からの贈りものなのだろうか。それとも心から望む相手だからこその、宇宙で一番の悪夢?
浩さんほどではないにせよ、私の夫も私の話など9割がた聞いていない。どれだけ説明しても悩みを理解してくれないし、私がどんな時に何を思うのかについて、興味のかけらすらもない。どうして結婚をすると男の人はこうも「話」を面倒くさがるのか。欧米の夫婦にあこがれることがままある。
「言葉」の理解はひとりひとりあやふやなもので、野球のキャッチボールのようにグローブで受け止めてもあの力強い固さを感じられない。それでも、投げ合わなければ暮らしや仕事は続けられないので、その、あるのかないのか不明な「何か」を誰もが投げ合って生きている。
私は今も、過去も、ずっと寂しかった。心許なくて不安だった。
何か確固たるものが欲しい。
そう思ってきた。
今、この本を読んで、
確固たる「言葉」が欲しい。言葉が通じ合える人との、ほんとうのおしゃべりがしたい。
と、そう強く望んでいることに気づいた。
言葉が持つ温度や湿度や純度、甘さ、辛さ、苦さ。色。
そういったものが感覚的に一致してしまうような相手を。
けれどこの本は私に小さいがしっかりとした声で語りかけてくる。
「確固たるものなど、ひとつもない」
と。
美弥子さんと同じ宇宙を共有するほどの体験をしたジョーンズさんは、だが、鳥かごを出て羽ばたいた美弥子さんを、もう以前と同じように小鳥とは思えなくなってしまう。
季節が必ず移ろうように、人も心も移ろいゆくもの。
移ろう、これが自然な姿で、そうあるべき真理なのだ。
つまり、私が探し続けているものも、その相手も、この先見つかることがあるかもしれない。一時は手に入れるかもしれない。その時は涙を流して感謝するだろう。この上ない幸せをかみしめるだろう。
そうして、時が流れれば自然の理として、
何の前触れもなしに、ある日忽然と私はそれを失うのだ。
そこまで考えた時、この本のタイトル
『真昼なのに昏い部屋』
という言葉の意味が、背筋をひたひた、と這いのぼってきたように感じた。