読了の向こう側に一体何があるのか

名著読了後の世界が知りたくなった主婦のブログ

言葉の意味が、背筋をひたひた、と這いのぼってきたように感じた。

 

 3月19日、江國香織著『真昼なのに昏い部屋』講談社文庫、読了。

 

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 発売日: 2013/02/15
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

自分の言葉がきちんと届く相手、ほんとうの意味での言葉のキャッチボールができる相手にもし出会ってしまったら、私は一体どうするのだろう。しぐさや目線の動かし方や気配で、気持ちを理解してしまうような人。美弥子さんにとってのジョーンズさんが、もしも、あんな風に目の前に現れてしまったら。

私は小さな鳥かごの中にとどまれるだろうか?

そして、その出会いは心底すばらしく、美しい宇宙からの贈りものなのだろうか。それとも心から望む相手だからこその、宇宙で一番の悪夢?

 

浩さんほどではないにせよ、私の夫も私の話など9割がた聞いていない。どれだけ説明しても悩みを理解してくれないし、私がどんな時に何を思うのかについて、興味のかけらすらもない。どうして結婚をすると男の人はこうも「話」を面倒くさがるのか。欧米の夫婦にあこがれることがままある。

「言葉」の理解はひとりひとりあやふやなもので、野球のキャッチボールのようにグローブで受け止めてもあの力強い固さを感じられない。それでも、投げ合わなければ暮らしや仕事は続けられないので、その、あるのかないのか不明な「何か」を誰もが投げ合って生きている。

私は今も、過去も、ずっと寂しかった。心許なくて不安だった。

何か確固たるものが欲しい。

そう思ってきた。

今、この本を読んで、

確固たる「言葉」が欲しい。言葉が通じ合える人との、ほんとうのおしゃべりがしたい。

と、そう強く望んでいることに気づいた。

言葉が持つ温度や湿度や純度、甘さ、辛さ、苦さ。色。

そういったものが感覚的に一致してしまうような相手を。

 

けれどこの本は私に小さいがしっかりとした声で語りかけてくる。

「確固たるものなど、ひとつもない」

と。

 

美弥子さんと同じ宇宙を共有するほどの体験をしたジョーンズさんは、だが、鳥かごを出て羽ばたいた美弥子さんを、もう以前と同じように小鳥とは思えなくなってしまう。

季節が必ず移ろうように、人も心も移ろいゆくもの。

移ろう、これが自然な姿で、そうあるべき真理なのだ。

 

つまり、私が探し続けているものも、その相手も、この先見つかることがあるかもしれない。一時は手に入れるかもしれない。その時は涙を流して感謝するだろう。この上ない幸せをかみしめるだろう。

 

そうして、時が流れれば自然の理として、

何の前触れもなしに、ある日忽然と私はそれを失うのだ。

 

そこまで考えた時、この本のタイトル

『真昼なのに昏い部屋』

という言葉の意味が、背筋をひたひた、と這いのぼってきたように感じた。

 

 

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 発売日: 2013/02/15
  • メディア: 文庫
 

 

「あんた馬鹿ね。本当に間抜けよ」 と一蹴されることがわかりきっているからだ。

3月16日、ポール・モラン著『シャネル 人生を語る』中公文庫、読了。

 

 

シャネル―人生を語る (中公文庫)

シャネル―人生を語る (中公文庫)

 

 

「人生がわかるのは、逆境の時よ。」

しびれた……!!

全くのイメージだが、ココ・シャネルという人物は気の強い、自立した、かっこいい女性だと思っていた。

裏切られた!と感じるのは、気の強さが想像を遥かに超えていたから。

それから、その辛辣さと言ったら。

その、誰にも(特に男の人に)頼らないとかたくなに決心している、鋼のような自立心。

思い立ったらグダグダと考える暇を一瞬たりとも与えない行動力。

出会う人間、ひとりひとりの本質をすぐさまに見抜く眼力。

読んでいる間中、なんだかすべて人並み外れていて、ほとんど感嘆しかしていない。

特に好きなのは、親友のミシアの章。こんな文章がある。

わたしたちは二人とも他人の欠点しか好きになれないという共通点をもっていた。欠点だらけのミシアは愛する理由に事欠かなかった。

これを読んだとき初めに思ったのは、「友人の欠点を愛せるなんて素敵じゃん!さすが!」というものだった。

でも読み進めるうちに「?」が浮かんでくる。

ミシアがシャネルを好きな理由は、シャネルがミシアにとって「理解不能」な人物だからだと、シャネル自身が分析している。

 

ミシアは私を愛していると心から信じているけれど、その愛は恨みなのよ。わたしに会うと不幸になるくせ、会わないではいられない。わたしの方から愛情を示すと夢中になって、何にも得がたい悦びにひたる。

シャネルもシャネルで、ミシアが自分を理解できずに執着している状況に優越感をいだいているように見える。アンビバレントな、分裂的な思考状態で自分に固執してくるこの友人を哀れんでいるのか、安心して優越に浸っているのか、とにもかくにも、好意を抱いている。

シャネルのミシアに対する友情も、ふたを開けてみれば、かなりいびつなのだ。似た者同士なのだろう。

だからこそ、二人の友情は末永く続いた。

それが幸せだったかどうかは別として。

でもなんかその友情が生々しくて、私の中でのこの本のハイライトになった。

だって人間て本来そういうものだと思うから。美しいと思いながら、愛らしいと思いながら、一方で破滅を願うような。

「愛している」と「憎んでいる」が全く同じ質量をもって同居するような。

いや、同居ではなくもはや同義語だね。

「愛してる」と書いて「にくんでいる」と読む。

「憎んでいる」と書いて「あいしている」と読む。みたいな。

 

この、統合失調的な、カオスな心理がこの章には詰め込まれていて、読んでいてとてもわくわくした。

多分私の性格が非情に悪いせいだと思われる。

ずうっと昔から、自分の中に相反する自分が住んでいる感じを持って生きてきた。だから、そういう人は自分だけじゃないんだな、と思って安心した面もあると思う。

それから、シャネルとミシアの気性の激しさが好き。自分も気性の激しさを飼いならせずに苦労してるから。

余談だけど、私、五黄の寅なんです。

 

 

この本にはシャネルの仕事に対する想いも詰まっている。

私にもやりたいことがあるので、とても胸に染みた。

常に愛情に飢えて、満たされない愛情への欲求というエネルギーを、すべて仕事につぎ込んだような人生。

仲間も信頼できる恋人もいたけれど、生涯独身で子どもも生まなかった。

本の中でも「わたしはひとり」という言葉が何回も出てくる。

「ひとり、それが何?」

「私は私の道をゆく。それがすべてよ。何か文句ある?」

というような気概で、時代の流れのど真ん中をずんずん突き進んでいくシャネル。

かっこいい。

きっと自分は成功できない、と思わせられてしまう。

この人くらいに孤独を飼いならせなければ、

すべての物事の頂点に仕事がくる生活でなければ、

成功の神には愛されない。

そう思う。

そのことに対して、シャネルの人生に対して、感想をもつことすらも怖い。

彼女は亡くなっているので、私がこうやって発信したところで何も言われたりしないのは百も承知だけど、どんな感想を言ったとて、

「あんた馬鹿ね。本当に間抜けよ」

と一蹴されることがわかりきっているからだ。

 

ココ・シャネルの心の中を知ることができた人は、果たしてこの世にいたのだろうか。

 

 

シャネル―人生を語る (中公文庫)

シャネル―人生を語る (中公文庫)

 

 

幸福というものは平静と享楽だ。

3月12日、堂目卓生著『アダム・スミス中公新書、読了。

 

 

かなり鬱期に入っております。

コロナショックで日経平均株価の底も抜けて、数日前までは底に達したかも?なんてうわさも囁かれていたけれど、いやいやなんのその。穴、空いちゃいました。どこまで下落するのやら。

今私が保有するのは長期用の銘柄なのでまあ、下がっても……的な考えはあったけど、先生も言うように、保有銘柄一覧を開くたびに緑の数字が大きくなっていくのは、精神衛生上まったくもってよろしくない。

こんなことなら早い段階で売れば良かった。

と思ってみても遅い。明日は金曜日なので利益確定の買い埋めがくるかな~~と期待して待ってみる。上がったら売っちゃおうかな。。いや、でもバフェットさんの肩に乗ろうと決心してからまだ1週間も経ってなくね?

自分との戦いに、負けそうだ。

 

まだ株の調子がここまで悪くなかった頃、かなり勉強する意欲が強くて、同時に読書欲もいい感じで、『国富論』を読もうと決心した。

かなり分厚い、高額な本だ。上下2冊合わせて8,000円!

でも、近代経済学の祖アダム・スミス

「見えざる手」でおなじみのアダム・スミスを読まずして、投資家と名乗れるか!と意気込んで、買うには買ったものの、その直後に齋藤孝先生が著書の中で、『国富論』を読むには『道徳感情論』をまず先に読まなければ、スミスの思考が正しく理解できない。という趣旨の話をされているのを知った。それでは、と思い『道徳感情論』を先に読むか……とネットでレビューを読んだのだが、それなりに読みづらいらしい。国富論でも骨が折れるのに、その前にも山があるのは、2つ目の山に到達できない可能性があるな……と悩んでいたところ、上記の1冊を見つけ、小躍りしたのだった。

堂目卓生氏の『アダム・スミス』は、その名の通りアダム・スミスの思考を、彼が生涯で2冊だけ著し、その2冊ともが最高評価の名著である『道徳感情論』と『国富論』とに基づいて解説してくれるという1冊なのだ。

つまりこれを読めば、道徳感情論と国富論の大筋がわかる。しかも1流の研究者が解説してくれる。しかもこんなに素晴らしい本が1冊なんと880円+税!!!

迷わなかったですよ、はい。ぽちっとね。

 

 

国富論については経済学の本ということで知られているが、アダム・スミスの考えを知っていくうちに、私は道徳を学んでいる感覚になった。

淡々と冷静に、人間というものを観察し考察するその心の目は感嘆するほどに鋭く、俯瞰的。感情的とは真反対で、理知的でおとな。国の為政者がこんな考え方の人ばかりだったら、今頃どれほど世界の秩序は保たれていただろう。いや、私たちは一人一人がこうあるべきで、こうであろうと努力しなければならないのだと気づかされる。

人間は「賢明さ」を持ち、「フェアプレーができる」存在だという人間への信頼の元、彼は政府による市場への規制を撤廃し、競争を促進することによって経済は成長すると説いた。一方で、人間は今まで受けてきた政府の規制による恩恵が、急にすべてなくなると不満が爆発し暴動を起こすので、考え方が正しいと思うからと言って、為政者は急進的な行動をとるべきでないと釘をさす。徐々に規制を緩和しつつ、折り合いをつけてくべきだと。

この、何とも言えないバランス感覚に、私も取りつかれ、彼のファンになってしまった。堂目氏もこう著している。

 

スミスは、到達すべき理想を示しながら、今できることと、そうでないことを見きわめ、今できることの中に真の希望を見出そうとした。『国富論』が不朽の名声を得ることができたのは、多くの読者が、そこに市場経済に関する斬新な理論を見出しただけではなく、スミスのバランスのとれた情熱と冷静さを感じ取り、それに同感したためであろう。

 

新型コロナウイルスで多くの人々が何かしらを諦め、我慢し、苦しい立場に立たされている。ほとんどの人がそうだろう。私もそうだ。

だが、「つらい苦しい怖い」と言って毎日を送ったとて情況は変わらない。ならば、スミスの言うように「今できることとそうでないこと」を見きわめ、今できることを全力で行い、その中に希望を常に見出し続けること。

これが一番大事なのだと気づいた。

また、スミスは「人間にとって最も重要なのは心の平静を保つことである」という信念を持っていたという。

幸福というものは単に富の多い少ないではなく、「平静と享楽」にある。

平静なしには享楽はあり得ないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。

という。

恐れ入る。おっしゃる通りの一言だ。

スミスによれば、人は、多くの富を築いた資産家のような人々と、少しの富しか築けなかった人々の幸福感の差を、過大評価しすぎているという。また、無名と広範な名声の違いについても。

常に自分の富や名声が他人に比べて劣っていると感じ、それを必死に追い求める(私みたいな)人は、個人の状態として不幸であるだけでなく、他人の迷惑になることすらある。ともいっている。

 

すみません……生きていてすみません……

という気分になった(^^;)

ともかく、心の平静があれば人は幸福なのだと教えてくれた。スミスは経済だけでない。経済のことよりも「人間」を教えてくれた。

「幸せ」を教えてくれた。

私がスミスに興味を持ったのは株式投資からの流れだが、人生にとってこんなにも為になるアドバイスをもらえるとは思っていなかった。感謝したい。

最後に、私が一番好きな、そして感動した、スミスが死の前年に書いたとされる文章を載せて終わりにしようと思う。

エピルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普通の境遇にあるすべての人びとにあてはまるだろう。王は、その寵臣に対して、自分が行おうと企てていたすべての征服を順序だてて話した。王が最後の征服計画について話し終えたとき、寵臣は言った。「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」。王は言った。「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、1本の酒で楽しく語り合うということだ」。寵臣は尋ねた。
「陛下が今そうなさることを、何が妨げているのでしょうか」。

 

 

 

 

神はそれでも、海のようにただ、そこに在るだけなのだ

2月28日、『沈黙』遠藤周作著、新潮文庫、読了。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

  • 作者:遠藤 周作
  • 発売日: 1981/10/19
  • メディア: 文庫
 

 

この小説を読むのに、3年かかった。読み始めるまでに。

なぜかと言うと、この本には読み進めることが困難なほど、つらいことが書いてあるのを知っていたから。キリシタン弾圧の最も厳しかった頃に日本に渡ったポルトガルの宣教師が主人公の、史実に基づく歴史小説と聞けば、内容は自ずと想像できる。

読めば、精神的にキツくなると思い、なかなか踏み出せずにいた。

なぜ今回手に取ったのか。それは、以前遠藤周作の『深い河』を読んでいたからだ。私の勝手なイメージで、堅苦しいと思い込んでいた遠藤周作の作風は、正反対にとてもとても読みやすく、なんと言っても稀代のストーリーテラーである。そのぐいぐいと物語に引き込む技術に圧倒され、テーマや語られている内容的には重苦しく、目をそむけたくなるようなものであるにも関わらず、読了後に何とも言えない快感を覚えたのだ。

その感覚を心身が覚えていたので、『沈黙』のページを、よくやくめくることができた。

この本のテーマは

神はいるのか?

いるのならば、なぜ、こんなにも悲惨な目にあいながら、また死んでいきながら祈り続ける信徒に「沈黙」を貫かれるのか。

この小説の初めから終わりまで、神は、一心に祈り、過酷な運命にはいつくばって生き、拷問に死ぬ信徒たちに対して、「沈黙」を守り続ける。

(なぜ黙っておられるのか。)

主人公の司祭は何度も訴える。

(みな、貴方のために死んでいくのです。なぜ、黙っておられるのですか。)

神はそれでも、海のようにただ、そこに在るだけなのだ。

 

ただ、神は一方で実は多くを語っている。主人公の司祭の目線で語られる本書のいたるところで、あの方は微笑み、語りかけてくる。

クライマックスでは、「沈黙」への問いにすら、答えているように思う。

 

だが、あくまでもそれは司祭を通して語られているものなのだ。

そして、最後の一文へと続いていく。

この小説を読み終えた時、信仰を持たない私でも、司祭とともに長い旅をし、神について考え、神に語りかけ、神に憤り、神に懇願し、神の前に涙した。司祭の旅(それは私が当初覚悟した通り、読むに堪えない拷問の記録)が終わるとともに、信仰への新たな目覚めを体感した。

キリスト教徒であった遠藤周作自身の信仰への葛藤が、まさしくこの「沈黙」に記されているのだと思った。

 

私はキリスト教に関して初心者なので、感じたことになってしまうが、恐らくキリスト教の考え方はとても厳しく、踏み絵は固く拒むものであるという事実は揺ぎ無いのだと思う。

「形だけだ、形式的に足を掛けさえすれば、本当に信仰を捨てずとも良い」役人はこうまで言って転ぶこと(改宗)を司祭に迫るが、はじめ司祭は固く拒む。殉教を美しいことだと思い、信仰を捨てることなど塵ほども思わない。しかし、この世のものとは思えぬ迫害が、次第に司祭の心を揺るがしてゆく。

ただひたむきにつらく苦しい生活(米も口にできず、芋や粟ばかり食べ、つらい年貢に苦しみ抜いて、それでも政府に不満の一つも表さない、表せない)を生きる善良な農民が、ただキリスト教を信仰している、そのことの為だけに、次々と拷問にかけられていく。踏み絵に連行される前夜、司祭の元に祝福を請いに来た疲弊した農民に、「踏むことはできない。だが踏まなければ、村の者全員が殺されてしまう。わしらは一体、どうすればよかとですか」と哀訴され、司祭はついに禁句を叫んでしまう。

 

「踏んでもいい、踏んでもいい」

 

この、司祭として決して言ってはならない「踏んでもいい」という言葉が、沈黙という小説の最も重要な一文だと、私は思った。

それは、この一文を読んだ時、涙が流れたことと、決して関係ないとは言えないと思う。

遠藤は元来の西洋的考えの「父なるキリスト」というものが、自分の日本人としてのアイデンティティとどうしてもマッチせずに苦しんだそうだ。

そうして導き出された遠藤なりの答えが、この、「踏んでもいい」だったのだと、そう思う。

 

 

準主人公であるキチジローについて。

キリストに対するユダとして、司祭に常に付きまとうキチジロー。

信仰はあるが権力と暴力に脆く弱く、あっけなく踏み絵をしてしまう男。

脅されて、何度も司祭と裏切るが、許してほしいとすがりつく男。

何度も何度も、消えては現れるこの男に嫌悪する読者は多いだろう。しかし、物語の最後の最後になっても、この男は依然として司祭の前に、いや、我々の前に現れる。

なぜか。

彼は、キチジローは、人間なら誰しもが持つ弱さ、卑屈さ、卑怯な心だからだ。例外なく、誰しもが持つ、弱さだからだ。

キチジローが所々で訴える内容に、私は胸を打たれた。

「この世にはなあ、強か者と弱か者のござります。強か者は拷問にも耐え、立派に天国ば行くこともできるが、俺(おい)のように弱か者は、パードレ、どうしたらよかとですか」

このようにキチジローは泣きながら訴える。信仰は捨てたくない。固く固く信じている。しかし役人に、改宗しなければ拷問にかけると脅される。恐ろしくて恐ろしくてたまらない。数十年前の日本に生まれたならば、自分はただの信仰厚い、貧しい農民として一生を終えただろう。今の世に生まれたばっかりに、ただ、今のような世の中に生まれたがばっかりに、

信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫られるーー。

彼の訴えが、痛いほどわかって、どうしても涙ぐんでしまう。

彼は、キチジローは、役人に脅されるがままに何度も何度も踏み絵を踏み、聖なるお方に唾を吐きかけ、潜伏するパードレを売り、それでも、どこまでもどこまでも「許してほしい」と言って追ってくる。

司祭ははじめ彼を嫌悪していた。

だが、物語の後半で司祭の心は反転する。

 

そして、最後の「切支丹屋敷役人日記」に続くのだ。

ある研究者は、この「切支丹屋敷役人日記」こそが小説中で最も重要なものだと言っている。懐古文で書かれており大半の読者が読むのを辞めてしまうという「切支丹屋敷役人日記」であるが、本文はむしろプロローグに過ぎないのではないかとまで言われたら、何としてでも読もうと思い、ヤフー知恵袋にお世話になりながら、何とか意味を読み取った。

 

そこには、遠藤周作が悩んだ末にたどり着いた、「日本におけるキリスト教」の姿が、淡々と直向きに、描かれていた。

 

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

  • 作者:遠藤 周作
  • 発売日: 1981/10/19
  • メディア: 文庫
 

 

1000000%無理だけど、この本を読んで慶応義塾大学に入学したくなった。

2月22日、『現代語訳 福翁自伝福澤諭吉著、齋藤孝編訳、ちくま新書、読了。

 

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

 

 

めちゃくちゃ面白いエッセイだった。

齋藤先生は日本で出版された書物の中で最も面白いエッセイだと言っているほど。

私の大好きなエッセイストはさくらももこ江國香織森茉莉だが、そこに福沢諭吉が追加された。

全然堅苦しくないのだ。本人の性格そのままに、カラリとした文体で、リズム感も抜群、すらすらと読めてすくっと笑える。

一万円札の肖像を二期連続で務めた、私などからすれば雲の上ほどの存在の人なのに、これほどまでに親近感が沸いてしまうと、なんだか親戚のおじさんみたい。

前半は、若かりし頃の塾生時代、こんな悪さしちゃったよ。根から性悪じゃないんだけど、酒やいたずらに明け暮れてさ!というやんちゃ自慢(?)話。こういう話があることで、読者をひきつけ、身近に感じさせ、話を聞きたいと思わせるのだろう。

齋藤先生も、こんなに偉い人でも神様の名前のあるお札を踏んでみて、「うむ、何ともない。こりゃ面白い。今度はこれを手洗いに持って行ってやってみよう」などという少年時代を送っているんだよ、面白いから読んでみて!

と言っている。

でも、私はそういう、男子の(女子もいるかもしれないけど)悪ふざけが大大大大大嫌いで。

子どもの頃から大酒のみで、塾生時代、貧乏だったにもかかわらず、少しでもお金が手に入ると(手に入らなくても、着物を売ってしまってまで)、仲間たちと酒盛りに次ぐ酒盛り。どんちゃん騒ぎ。裸で飲んだりしてたとか。

塾での生活は不規則と言うか不整頓というか、乱暴狼藉、まるで物事に無頓着。その無頓着の行きつくところは、世間で言うように清潔だの不潔ということを気にとめない。

この箇所を読んだとき、思い出したことがある。

私は高校時代、野球部のマネージャーをしていて、休日には練習試合のために、あらゆる高校に出向いていた。よく練習試合をしてくれる高校のひとつに、開成高校がある。言わずと知れた進学校、2019年、現役で東京大学に140人合格しているような、私の通っていた高校の偏差値とは比べ物にならない学校だが、ありがたいことに、とにもかくにも練習試合はしてくれたのだ。

その高校で、着替えをしたいと申し出た時に、もちろん女子更衣室もなければ、男子校なので女子トイレもない。案内されたのが1年生の教室。一歩足を踏み入れて唖然とした。

汚すぎた。

あまりにも……

床は足の踏み場が無いほど荷物で埋め尽くされ、雑然としていた。机のぐちゃぐちゃで整理整頓とは程遠い世界。

3方を黒板に囲まれた、月曜日になれば一流の頭脳が集まるその教室で、おどおどしながら着替えた思い出。

これが、超超超超進学校(男子校)の教室なのか……

やはり頭の良い男子たちの通う学校は何かちがうな……

とため息した覚えがある。

 

 

ちなみに私は不潔も大大大大大大大大大嫌いで。

もうね、いくら頭良くてもね、身の回りのことちゃんとできない人はだめよ……福澤さん。という感じでちょっと引き気味で読んでいた。

そうしたら中盤くらいに、

「鯛の肝だと嘘をついて、仲間にフグの肝を食べさせた」

などという悪ふざけエピソードが書いてあったものだから、ドン引きした。

 

うわぁ……

そういうことする人、めちゃくちゃ嫌い……

 

あのね、それね、殺人ですよ?

 

真面目か!と自分に突っ込みを入れたくなるけど、そこは真面目でいきたいよ。全然面白くないよそのエピソード。

 

まぁ、その殺人未遂エピを境にして、急に「でも我々はこんなことしてたけど、やることはちゃんとやってたよ?こんな感じで勉強してましたよ!」

という勉強方法紹介エピソードに変わるのだが、その落差の激しいこと激しいこと。めっちゃ勉強してるの、この方。この塾生たち。もうかっこいいのなんのって。すさまじく高度な勉強をされていて、そのギャップよ。

ギャップ萌え。

福澤はおどろくべき実行力があり、エネルギーがあり、物事のまん真ん中を常に見つめて間違わない人だ。

今回の読書感想文は大半が「引いた話」になってしまったが、それも含めて後半から鷲づかみにされるこの気持ち、皆さんどうぞ味わってみてください。

1000000%無理だけど、この本を読んで慶応義塾大学に入学したくなった。

なので、高校生以下の、若い人にほどおすすめです。

 

 

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

 

 

電子書籍で人格読書法をするのは、かなり至難の業だ。

2月19日、『なぜ本を踏んではいけないのかー人格読書法のすすめ』

齋藤孝 草思社、読了。

 

 

なぜ本を踏んではいけないのか: 人格読書法のすすめ

なぜ本を踏んではいけないのか: 人格読書法のすすめ

  • 作者:齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

本は、踏めない。踏もうと思ったこともない。

だけど本とは、ただの物質であって、踏もうと思って簡単に踏めるものであるし、踏んだからと言ってちょっとやそっとで壊れるものでもない。

だけど多くの人は、意識的に無意識的に、本を足で扱うことはしないだろう。ましてや踏むなんて!

齋藤先生は、「本には人格があるから踏めない」と言う。

人格。

本には著者の生命と尊厳が込められている。著者そのものがそこに生きているようなものなので、本を踏むことは、著者の人格を踏みにじるに等しい行為なのである。(中略)私は、本を読む行為は、著者の人格の継承、メンターの精神の継承にあるとあると考える。(P13序章)

 

齋藤先生のすべての著書に首尾一貫してつらぬかれている考えが、この『人格読書法』なのだ。

本を「情報や知識を得る手段」と位置付けることもできる。確かに本にはそういう大きな役割がある。でもそれなら、インターネットさえ繋がっていれば十分という考え方もできてしまう。今、ネットがあるから本を読まないという選択をする人が増えているそうだ。かさばらず、大量の情報を持ち歩いているのだから、便利を追求する人間には、「本」など必要ないのかもしれない。

かくいう私も、kindle paper whiteを買い、何冊かを読んでみたことがある。薄くて軽くて、読みやすく、暗い部屋で読んでも、目に優しい。真昼の太陽の下でも読みやすい。なんて便利なんだろうと思った。

しかし、徐々に使用頻度が落ちていき、逆に紙の本がまた、本棚に並び始めることとなった。

電子書籍も良いのだが、なんだか本を読んでいる感じがしなくて、集中できなかった。それこそ、「情報を得ている」という感覚が99%を占めていて、「人生のとても大切なことを伝授してもらっているのだ」という感覚が薄れる。そうすると、読み終わった後、ほとんど記憶に残らないことに気づいたのだ。

電子書籍で人格読書法をするのは、かなり至難の業だ。

ただでさえ、内容を理解するのに多大なエネルギーを使わなければ読めない本を、さらにレベルの高いものにしてしまうとなると、私にはお手上げ。

だから、紙の本に戻って来てしまったが、やはり、紙の本を読んでいると落ち着くし、楽しいし、身が引き締まる思いがする。

要は、私は紙の本が好きなのだ。

だから、なくならないでほしい。「紙の本であるがゆえに感じること」が必ずあるはずなんだ。手触りや重みや装丁の美しさを楽しむこと。ページをめくる行為から沸き起こる、「読み進んでいる」実感、達成感。

本自体、とても魅力的な存在なのだ。

今現在、電子書籍3割、紙の本7割程度の流通量だそうだ。

7割って結構多いなと私は思った。

紙の本、このまま私が死ぬまでは主流の座を明け渡さないで欲しいな。

そして、私の著作もぜひ、実際の紙で本になってほしい。それを手に取った後であれば、いつ死んでもかまわない。

 

 

なぜ本を踏んではいけないのか: 人格読書法のすすめ

なぜ本を踏んではいけないのか: 人格読書法のすすめ

  • 作者:齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

私は前にも増して、一万円札が大好きになった。

2月16日、『現代語訳 学問のすすめ齋藤孝編訳 ちくま新書、読了。

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

 

 

 

かの有名な『学問のすすめ』を、我が敬愛し、私淑している齋藤孝先生が、今どきの言葉に訳して、劇的に読みやすく、かつ本来の福沢諭吉のユーモアあふれるリズム感の良い文体そのままに、編訳してくれている最高の一冊だ。

現在、巷には自己啓発本があふれている。私も結構好きで、よく読んでいた時期もあるし、これからも以前ほど多くないにせよ、読むことはあると思う。その、いわゆる「自己啓発本」「ビジネス書」というものの、根源をたどると、福沢諭吉の『学問のすすめ』に行きつくのだ、という趣旨のことを、齋藤先生はおっしゃっている。

『「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。』という誰もが知る文章から始まるこの書物は、だから、人は、その人が持てる力を十二分に発揮して、その人が得意とする道で、大成し、世の中の役に立ち、この日本という国を自立させなければならない。と説く。

封建制度の時代では、農家に生まれたら農業の本以外を読みたい、農業以外のことを勉強したいと願う子どもは「無駄なことをしている親不孝者」「役立たず」であった。

本を読んで役立たずと言われる!衝撃だ。しかし、それが事実なのだ。

二宮金次郎がそうで、どうしても勉強がしたい。本が読みたいのだが家の仕事をしなければ怒られるので、だったら、仕事をしながら大好きな本を読めばいいのだ!と結論付け、薪を背負いながら読書するスタイルを確立した。

今でこそ銅像にもなり、勉学に励む素晴らしい精神の象徴とされているが、当時親戚の間では、

「まーたうちの役立たずが何の役にも立たない勉強とやらをやりおって」

と言われていたのではないか。悲しい過去を背負う銅像でもあるのだ。

 

勉強が無駄になるなどという、そんな切ない時代は終わったのだ、と福澤は説く。

今は、人間、どの家業を営む家に生まれようが権理(福澤はあえてこの漢字を充てたそうだ)は平等なので、しっかりと、本腰を入れて勉強し、自分の好きなことをすればいい。でもどうせやるなら実務的な学問がいい。明治初期、西欧に押されに押され、流されに流されている状態をいち早く脱し、日本国が自立をし、西欧諸国と対等に取引ができるようになるには、詩や俳句の勉学をするよりも、商いや農業や数学や医学や科学や物理学を、大いに学ぶべきではないか。

と熱弁をふるう。商売でも、農業でも、政府の役人でも、自分や家族のためにだけ働くのではない、日本人として、独立を目標にみなが頑張るときなのだ。と。

明治初期の悲壮感、緊迫感が伝わってくる。それは、独立できなければ西洋諸国に飲み込まれ、良いように扱われてしまいかねないのだから当然だ。(そしてその状況は現在とさほど変わらない)

私も読んでいて熱くなってくるのを感じた。今回は2度目の読書だったので、全編音読に挑戦してみた。音読していると声に力が入ってきて、何かが乗り移ったように、壁に向かって、あるいはテレビに向かって、あるいは誰も座っていない椅子に向かって、気づけば熱く語りかけていた。(完全に危ない人)

齋藤先生が「最高のビジネス書であり国民全員が読むべき本」とおっしゃる意味がよくわかる。

自分が行う「仕事」によって、他人にとって役に立ち、感謝され、ひいては世の中をすばらしくする(福澤流に言うと、日本国にとって役に立つ)、そのために私たちは勉強をするのだ。

明治初期の時代にあって、福沢諭吉ほど中立的なものの見方ができる人はいたのだろうか?なぜこんなにも上下左右、どちらにも傾かず、物事のど真ん中に揺ぎ無く立っていられるのだろうか?

やはりそれは寝る間も惜しんで本を読み、人と会い続けたことによるのだろう。

 

 

2024年に一万円札の肖像が福沢諭吉から渋沢栄一に替わる。ちょっと寂しいな。

一万円札はもちろん、嫌いな人などいないはず。

学問のすすめ』を読むと福澤諭吉がとても親身に感じられるから不思議だ。私は前にも増して、一万円札が大好きになった。

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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