読了の向こう側に一体何があるのか

名著読了後の世界が知りたくなった主婦のブログ

私は前にも増して、一万円札が大好きになった。

2月16日、『現代語訳 学問のすすめ齋藤孝編訳 ちくま新書、読了。

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

 

 

 

かの有名な『学問のすすめ』を、我が敬愛し、私淑している齋藤孝先生が、今どきの言葉に訳して、劇的に読みやすく、かつ本来の福沢諭吉のユーモアあふれるリズム感の良い文体そのままに、編訳してくれている最高の一冊だ。

現在、巷には自己啓発本があふれている。私も結構好きで、よく読んでいた時期もあるし、これからも以前ほど多くないにせよ、読むことはあると思う。その、いわゆる「自己啓発本」「ビジネス書」というものの、根源をたどると、福沢諭吉の『学問のすすめ』に行きつくのだ、という趣旨のことを、齋藤先生はおっしゃっている。

『「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。』という誰もが知る文章から始まるこの書物は、だから、人は、その人が持てる力を十二分に発揮して、その人が得意とする道で、大成し、世の中の役に立ち、この日本という国を自立させなければならない。と説く。

封建制度の時代では、農家に生まれたら農業の本以外を読みたい、農業以外のことを勉強したいと願う子どもは「無駄なことをしている親不孝者」「役立たず」であった。

本を読んで役立たずと言われる!衝撃だ。しかし、それが事実なのだ。

二宮金次郎がそうで、どうしても勉強がしたい。本が読みたいのだが家の仕事をしなければ怒られるので、だったら、仕事をしながら大好きな本を読めばいいのだ!と結論付け、薪を背負いながら読書するスタイルを確立した。

今でこそ銅像にもなり、勉学に励む素晴らしい精神の象徴とされているが、当時親戚の間では、

「まーたうちの役立たずが何の役にも立たない勉強とやらをやりおって」

と言われていたのではないか。悲しい過去を背負う銅像でもあるのだ。

 

勉強が無駄になるなどという、そんな切ない時代は終わったのだ、と福澤は説く。

今は、人間、どの家業を営む家に生まれようが権理(福澤はあえてこの漢字を充てたそうだ)は平等なので、しっかりと、本腰を入れて勉強し、自分の好きなことをすればいい。でもどうせやるなら実務的な学問がいい。明治初期、西欧に押されに押され、流されに流されている状態をいち早く脱し、日本国が自立をし、西欧諸国と対等に取引ができるようになるには、詩や俳句の勉学をするよりも、商いや農業や数学や医学や科学や物理学を、大いに学ぶべきではないか。

と熱弁をふるう。商売でも、農業でも、政府の役人でも、自分や家族のためにだけ働くのではない、日本人として、独立を目標にみなが頑張るときなのだ。と。

明治初期の悲壮感、緊迫感が伝わってくる。それは、独立できなければ西洋諸国に飲み込まれ、良いように扱われてしまいかねないのだから当然だ。(そしてその状況は現在とさほど変わらない)

私も読んでいて熱くなってくるのを感じた。今回は2度目の読書だったので、全編音読に挑戦してみた。音読していると声に力が入ってきて、何かが乗り移ったように、壁に向かって、あるいはテレビに向かって、あるいは誰も座っていない椅子に向かって、気づけば熱く語りかけていた。(完全に危ない人)

齋藤先生が「最高のビジネス書であり国民全員が読むべき本」とおっしゃる意味がよくわかる。

自分が行う「仕事」によって、他人にとって役に立ち、感謝され、ひいては世の中をすばらしくする(福澤流に言うと、日本国にとって役に立つ)、そのために私たちは勉強をするのだ。

明治初期の時代にあって、福沢諭吉ほど中立的なものの見方ができる人はいたのだろうか?なぜこんなにも上下左右、どちらにも傾かず、物事のど真ん中に揺ぎ無く立っていられるのだろうか?

やはりそれは寝る間も惜しんで本を読み、人と会い続けたことによるのだろう。

 

 

2024年に一万円札の肖像が福沢諭吉から渋沢栄一に替わる。ちょっと寂しいな。

一万円札はもちろん、嫌いな人などいないはず。

学問のすすめ』を読むと福澤諭吉がとても親身に感じられるから不思議だ。私は前にも増して、一万円札が大好きになった。

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)