カミュ『異邦人』自分の中にその他者を見出せるのか思い巡らす
共感できない」というキラーワードで「つまらない」と決めつけると、読書本来のおもしろさが半減する、とピースの又吉直樹は著書『夜を乗り越える』に書いている。
また、小説『火花』では「共感至上主義ってどうなの?」と疑問を投げかける。
「異邦人」を読了して、「共感」をテーマに書こうと思った時、又吉のこの言葉を思い出して『夜を乗り越える』を久しぶりに本棚から引っ張り出してきて読んで驚いた。上記共感の件の隣のページに、まさに『異邦人』についての記述があるではないか。
殺人に共感する必要はないが、「どういうことなんだろう?」と考える、それが醍醐味なのだと。
共感というテーマと『異邦人』は切っても切れない関係ということか。確かに、この異邦人の主人公は実社会において凡そ共感する事のできない、むしろ共感する事を忌避すべき思想を持つ人物として描かれる。
ママンが死んだ翌日に海水浴に行って女と遊び、喜劇映画を観て笑いころげ、もちろん夜は部屋に連れ込んでお楽しみ。「太陽が眩しかったから」殺人を犯し、「健康な人は誰でも、愛する者の死を期待する」と言って弁護士を仰天させる。
共感できます、と言ったら自分まで人格を疑われかねない。それはわかる。
でも、
「人を殺した理由が太陽が眩しかったっておかしいでしょ(笑)」
「母親が死んだ翌日に海水浴に行ったらダメだって!」
「母親が死んだら泣くのが普通でしょ?」
「神を信じない⁈はぁ?ちょっとあり得ないんですけど」
極め付けは、
「あんたさ、私らと考え方違うんだよね、マジで異邦人」
と言動で訴えてくる多くの登場人物に対して、
何これ?
イジメの原理じゃない?何様?
と思った事実。
こいうい考えに真っ向から立ち向かい、否定する主人公に気づけばエールを送っていたという事実。
最後の神父に対する叫びに、私も一緒に興奮し、拳を握りしめたという事実。
「自分の正義はあの人にとっても正義か?」
「本当にその考えは正しいのか?」
そう、問いかけられている気がした。
人は、自分のものさしでしか世界を測れないが、想像力というものを与えられた動物だ。
自分とは異なる選択をした他者の、その心境や背景を想像する努力を、理解不能の他者を「異邦人」として切り捨てず、自分の中にその他者を見出せるのか思い巡らす勇気を、常に持っていたいと強く思う。
最後に。
小説の文脈に於いて「母さん」でもなく「おふくろ」でもなく「ママン」と訳す事にした窪田啓作氏。
そこに訳者の主人公ムルソーに対する愛情、そしてムルソーの母親に対する愛情が込められていると、私は信じている。